大名あれこれ

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「大名あれこれ」第2回は、先日追加したばかりの平岡家です。


平岡家が大名になったのは、幕末も押し迫った元治元年(1864年)のことです。それ以前は、かなり下級の旗本でした。
平岡家が大名になるまでをおさらいしましょう。

平岡家の初代平岡道成の父平岡頼成は、武田晴信(信玄)や武田勝頼に仕えた武将でした。頼成の正室は武田四天王の一人として名高い春日虎綱(高坂昌信)の妹だといわれています。
道成の代のとき武田家は滅亡し、道成は徳川家康に仕えることになります。家康からは甲斐国の代官に任命され、1000俵を与えられます。
これ以降、平岡家は故郷の地である甲斐国と密接に関わっていきます。

第2代の平岡千道のとき大久保長安事件が発生し、これに連座して千道は一度失脚しますが、後に徳川家光の弟徳川忠長の家臣として登用され、200俵を与えられます。忠長は当時甲府藩主であり、千道はまたも甲府で働くことになったのです。
第3代の平岡吉道のとき忠長は改易され、吉道もいったん旗本に戻りますが、第4代の平岡道益のとき、今度は徳川家光の3男でやはり甲府藩主であった徳川綱重の家臣になります。なお、道益のとき、加増を受けて300俵となっています。
宝永元年(1704年)、第5代の平岡道哿のとき、綱重の子で甲府藩を継いでいた徳川綱豊が徳川家宣と改名して将軍継嗣となります。これに伴って、道哿も300俵の旗本となります。

これで平岡家と甲府との関わりは終わりかというと、まだあります。
甲府藩は、綱豊が将軍継嗣となった後、柳沢家が入りますが、享保9年(1724年)に柳沢家が大和国の郡山藩に転封になると、以降は天領になりました。
そして、天領になった甲府を管理するためとして、甲府勤番という役職が新たに設けられたのですが、道哿は甲府勤番として最初に甲府に派遣された旗本の一人になっています。その後、第6代の平岡道利、第7代の平岡道央も、甲府勤番を経験しています。

さて、第8代の平岡道忠のときに加増があり、300俵から500石となったのですが、第9代の平岡道弘が家督を継いだ天保8年(1837年)の時点では、この500石の状態でした。依然として下級の旗本だったといってよいでしょう。
ところが、嘉永2年(1849年)、道弘は、御側御用取次という将軍の側近に抜擢されます。御側御用取次というと、大岡忠光田沼意次林忠英など、旗本から大名に出世した人物を何人も出した役職です。ここから道弘も出世コースに乗っていきます。
同年に1500石、万延元年(1860年)に2000石、文久2年(1862年)に1000石、そして元治元年(1864年)に5000石をそれぞれ加増されて、あっという間に1万石に到達したのです。

しかし、大名としての生活は長くはありませんでした。わずか3年後の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令によって、徳川慶喜の将軍職辞職が決定します。
道弘は、大名としてただ1人、領地を放棄して慶喜の江戸城退去に随行し、その後徳川家達の家臣として静岡藩の大参事(家老職)に就任します。

大名は基本的に明治政府下で華族に叙せられていますが、明治政府が確立した時点ですでに大名でなくなっていた平岡家は、華族になっていません。
そのため、近世系図堂で大名として掲載している家のうち、唯一、明治以降の系図が全く分からない家となっています。「寛政譜以降旗本家百科事典」では、道弘の養子と考えられる平岡道教という人物の存在が確認できますが、詳しいことは分かりません。

なお、道弘は、文献やインターネット上(Wikipediaなど)で、「藤沢宮内米和の2男」と記載されていますが、これは誤りです。
まず、「米和」ではなく、「次和」が正しい名です。寛政重修諸家譜にも、「藤沢次和」が掲載されています。
また、2男ではありません。道弘は寛政10年(1798年)の生まれですが、同年頃までの系図を収録している寛政重修諸家譜には、次和の子としてすでに元服している男子2名(藤沢延次、藤沢次富)が掲載されています。道弘が3男以降であることは間違いありません。
藤沢家も平岡家と同様、代々甲府勤番を務めてきた家で、道弘の養父である次和は家督を継いだ安永3年(1774年)以降甲府勤番を務めていました。一方、平岡家も第7代の道央が宝暦元年(1751年)から寛政2年(1790年)まで甲府勤番を務めており、この縁で道弘の養子入りが実現したのではないかと推測しています。
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「大名あれこれ」では、1つの大名家に焦点を当てて、あれこれと書き連ねます。

第1回は、大河ドラマ「軍師官兵衛」ですっかりおなじみになった、黒田(長政)家です。


福岡藩初代藩主の黒田長政は、黒田官兵衛孝高の長男です。大河ドラマでは次回放送で元服する模様!
支藩として秋月藩があります。
東蓮寺藩(直方藩)が2度にわたって創設された時期がありましたが、2度とも藩主が本藩を相続することとなり、廃藩となっています。

この黒田家で忘れることができないのが、「黒田騒動」です。
これは簡単にいえば、第2代藩主の黒田忠之と、筆頭家老であった栗山大膳利章の対立です。利章は、大河ドラマで濱田岳さん演じる栗山善助利安の長男ですね。
忠之と利章は、馬が合わないところがあったようです。利章が藩のためを思って諫言しても、忠之からすれば口うるさく聞こえる、というように。
最終的には、寛永9年(1632年)、利章が幕府に対し、「忠之が謀反を計画している」と訴え出るという奇策に出ます。謀反の計画など事実ではなく、忠之が幕府に取り調べられることでその悪政を表面化し、忠之の反省を促そうとした、というのが目的だったようです。
九州の大藩だった熊本藩加藤家が同じ年に改易されたことも、利章の行動の原因の一つかもしれません。
幕府による審理の結果、忠之はお咎めなしとされ、利章は盛岡藩南部家へお預けとなります。忠之がお咎めなしとされたのですから、利章の目的は果たされたといえるでしょう。

さて、大河ドラマに出てくるおなじみの黒田家家臣といえば、今のところ、
・栗山善助利安(濱田岳さん)
・母里太兵衛友信(速水もこみちさん)
・井上九郎右衛門之房(高橋一生さん)
の3名ですね。
さらに、現在の放送時点では家臣としての活躍はありませんが、
・後藤又兵衛基次(塚元高史さん─予定)
・黒田三左衛門一成(有岡城牢番の加藤又左衛門重徳の子、玉松)
も加わります。
(なお、この5名に、官兵衛の弟3名(黒田兵庫助利高、黒田修理亮利則、黒田図書助直之)を加えて、黒田八虎といいます。)
この5家、江戸時代にはあまり優遇されていません。

栗山家は、利章がさきの黒田騒動で盛岡へお預けとなってしまいました。
インターネット上には「栗山家はそのまま代々盛岡藩に仕えた」という記載が見受けられますが、実際は利章の長男栗山一三(別名利光)が延宝4年(1676年)に死去したことで、断絶となっています。一三の長男栗山利吉は、寛文10年(1670年)に先立って死去しています。
ただし、利章が盛岡でもうけた三男利政が、一三の死後召し出され、母の名字である「内山」を名乗り、200石で盛岡藩に仕えています。

母里家は、私の調査ではそもそも友信の後継者が誰なのかすら分かりませんでした。
ただし、時期は不明ながら1万6000石あった所領が約740石にまで減らされています。幕末の分限帳には、「毛利太兵衛」と記載されています。
なお、秋月藩主の黒田長貞は、福岡藩家臣野村祐春の子ですが(系図参照)、この野村祐春は、友信の実弟野村祐勝の玄孫(孫の孫)です。

井上家は、承応年間(1652年~1654年)に断絶しているようです。之房の孫の代だということですが、それ以上のことは分かりませんでした。
幕末の分限帳には、600石の「井上九郎右衛門」が記載されています。おそらく親族でしょう。
なお、之房の長男井上庸名は幕府に直接仕えて旗本になっていますが、明暦3年(1657年)、3代後の井上庸貞の死去により無嗣断絶となっています。

後藤家は、ご存知の方も多いでしょうが、慶長11年(1606年)、基次が黒田家を出奔してしまっています。その後、大坂冬の陣、夏の陣に豊臣方として参戦し、討ち死にしました。
子孫は、基次が出奔後の一時期身を寄せた熊本藩細川家などに仕えています。

結局、福岡藩内で唯一大身のまま残ったのは、5家の中で最後に仕えた三奈木黒田家だけでした。
三奈木黒田家は減封などされることなく、第9代の黒田隆庸以降は藩主から偏諱ももらうようになります。
三奈木黒田家の石高が1万6000石余り、次に石高が多いのが久野家(第2代の黒田一任の実家)の5500石余りですから、その差は歴然といったところですね。
近世系図堂の管理人、徳川家一です。
このたびブログを始めることにしました!

ブログでは、大名に関するあれこれを、気ままにつづっていきます。
よろしくお願いします!
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