大名あれこれ

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「大名あれこれ」では、1つの大名家に焦点を当てて、あれこれと書き連ねます。

第1回は、大河ドラマ「軍師官兵衛」ですっかりおなじみになった、黒田(長政)家です。


福岡藩初代藩主の黒田長政は、黒田官兵衛孝高の長男です。大河ドラマでは次回放送で元服する模様!
支藩として秋月藩があります。
東蓮寺藩(直方藩)が2度にわたって創設された時期がありましたが、2度とも藩主が本藩を相続することとなり、廃藩となっています。

この黒田家で忘れることができないのが、「黒田騒動」です。
これは簡単にいえば、第2代藩主の黒田忠之と、筆頭家老であった栗山大膳利章の対立です。利章は、大河ドラマで濱田岳さん演じる栗山善助利安の長男ですね。
忠之と利章は、馬が合わないところがあったようです。利章が藩のためを思って諫言しても、忠之からすれば口うるさく聞こえる、というように。
最終的には、寛永9年(1632年)、利章が幕府に対し、「忠之が謀反を計画している」と訴え出るという奇策に出ます。謀反の計画など事実ではなく、忠之が幕府に取り調べられることでその悪政を表面化し、忠之の反省を促そうとした、というのが目的だったようです。
九州の大藩だった熊本藩加藤家が同じ年に改易されたことも、利章の行動の原因の一つかもしれません。
幕府による審理の結果、忠之はお咎めなしとされ、利章は盛岡藩南部家へお預けとなります。忠之がお咎めなしとされたのですから、利章の目的は果たされたといえるでしょう。

さて、大河ドラマに出てくるおなじみの黒田家家臣といえば、今のところ、
・栗山善助利安(濱田岳さん)
・母里太兵衛友信(速水もこみちさん)
・井上九郎右衛門之房(高橋一生さん)
の3名ですね。
さらに、現在の放送時点では家臣としての活躍はありませんが、
・後藤又兵衛基次(塚元高史さん─予定)
・黒田三左衛門一成(有岡城牢番の加藤又左衛門重徳の子、玉松)
も加わります。
(なお、この5名に、官兵衛の弟3名(黒田兵庫助利高、黒田修理亮利則、黒田図書助直之)を加えて、黒田八虎といいます。)
この5家、江戸時代にはあまり優遇されていません。

栗山家は、利章がさきの黒田騒動で盛岡へお預けとなってしまいました。
インターネット上には「栗山家はそのまま代々盛岡藩に仕えた」という記載が見受けられますが、実際は利章の長男栗山一三(別名利光)が延宝4年(1676年)に死去したことで、断絶となっています。一三の長男栗山利吉は、寛文10年(1670年)に先立って死去しています。
ただし、利章が盛岡でもうけた三男利政が、一三の死後召し出され、母の名字である「内山」を名乗り、200石で盛岡藩に仕えています。

母里家は、私の調査ではそもそも友信の後継者が誰なのかすら分かりませんでした。
ただし、時期は不明ながら1万6000石あった所領が約740石にまで減らされています。幕末の分限帳には、「毛利太兵衛」と記載されています。
なお、秋月藩主の黒田長貞は、福岡藩家臣野村祐春の子ですが(系図参照)、この野村祐春は、友信の実弟野村祐勝の玄孫(孫の孫)です。

井上家は、承応年間(1652年~1654年)に断絶しているようです。之房の孫の代だということですが、それ以上のことは分かりませんでした。
幕末の分限帳には、600石の「井上九郎右衛門」が記載されています。おそらく親族でしょう。
なお、之房の長男井上庸名は幕府に直接仕えて旗本になっていますが、明暦3年(1657年)、3代後の井上庸貞の死去により無嗣断絶となっています。

後藤家は、ご存知の方も多いでしょうが、慶長11年(1606年)、基次が黒田家を出奔してしまっています。その後、大坂冬の陣、夏の陣に豊臣方として参戦し、討ち死にしました。
子孫は、基次が出奔後の一時期身を寄せた熊本藩細川家などに仕えています。

結局、福岡藩内で唯一大身のまま残ったのは、5家の中で最後に仕えた三奈木黒田家だけでした。
三奈木黒田家は減封などされることなく、第9代の黒田隆庸以降は藩主から偏諱ももらうようになります。
三奈木黒田家の石高が1万6000石余り、次に石高が多いのが久野家(第2代の黒田一任の実家)の5500石余りですから、その差は歴然といったところですね。
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